勅願の宮 鞭崎神社 本殿

  祭 神

●應神天皇(武道、厄除け、病気平癒の神)

●神功皇后(安産・子育て、子孫繁栄の神)

●武内宿禰(長寿、忠臣の神)

●住吉大神(航海・旅行安全、港の神)

●菅原道真公(学問、技芸上達の神)

「應神天皇」(おうじんてんのう)

誉田別命(ほんだわけのみこと、品陀和気命)ともいわれ、第十五代天皇。八幡宮の大菩薩。 八幡宮の主祭神で文武の神様である。そのために鞭崎神社はもともと鞭崎八幡宮と呼称されていた。

「神功皇后」(じんぐうこうごう)

聖母大神(しょうもおおかみ)息長帯比賣命(おきながたらしひめのみこと)ともいわれ、第十四代仲哀天皇の皇后。 應神天皇の母君にあたる。

「武内宿禰」(たけのうちすくね)

高良大神(こうらおおかみ)または高良玉垂命(こうらたまだれのみこと)ともいわれ、八幡大神の産土神(うぶすなのかみ、生まれた土地を守護する神)。長寿の神様

「住吉大神」(すみのえのおおかみ)

底筒男命(そこつつおのみこと)、中筒男命(なかつつおのみこと)、表筒男命(うわつつおのみこと)の三柱の神の総称。伊邪那岐命(いざなぎのみこと)が黄泉国に行った時の穢れを祓うために、筑紫の日向の橘、小門の阿波岐原で、禊祓をした時に出現した神々である。

「菅原道真公」(すがわらのみちざねこう)

平安前期の政治家・学者。醍醐天皇のとき、右大臣として重用された。公卿で、詩歌、学問に優れ、空海や小野道風と並び"書道の三聖"と言われている。

  略 譜

白鳳四年(西暦 676年) 矢橋八幡宮創建
寛平九年(西暦 897年)頃 菅原道真公が矢橋八幡宮を参拝し、 梅の木を愛でた歌を残す
建久元年(西暦1190年)  鞭嵜八幡宮に改名(源頼朝公の言動より)
慶長八年(西暦 1603年) 快慶作の阿弥陀如来立像を、京都上徳寺へ移す(徳川家康公が乞い求めて、上徳寺へ寄付)
天保八年 (西暦1837年) 京都下鴨神社の摂社「河合神社」の式年遷宮時、旧本殿を譲り受け、現本殿とした
明治元年(西暦1868年) 神仏分離令で鞭崎神社に改名
明治四年(西暦1871年)  膳所城より南大手門が寄進される
明治二十二年(西暦1889年) 八幡太郎義家二十七世孫、木曾源太郎が鞭を奉納
明治四十三年(西暦1910年) 五月五日を例祭日と定める

  創建と歴史(矢橋八幡宮 → 鞭嵜八幡宮 → 鞭崎神社)

鞭崎神社は元々「矢橋八幡宮」と呼ばれていました。矢橋八幡宮は天武天皇の命により中臣家の子孫、大中臣清麿が白鳳四年(西暦676年)二月十 一日に此処矢橋の地に創建した。 いわゆる「勅願の宮」である。
天智天皇が近江に都を移したが、その後、大海人皇子(のちの天武天皇)が、兄である大友皇子(天智天皇の皇子)と皇位継承を争った壬申の乱 (西暦672年)から僅か四年後のことである。
天武天皇は、二十年毎の伊勢神宮式年遷宮の制を創設するなど、敬神の念が厚く、この地に矢橋八幡宮を創建させ四町四方を社地とし、神主・紀 是尚(き よしかみ)をして皇位の長からんことを願う宝祚(ほうそ)延長を祈願させた。
この事より勅願の宮として、今に息づいている。(勅願とは天皇の祈願に基づいて建立された社寺)
矢橋の地名は古く、万葉集にも

"淡海のや 矢橋の小竹を 矢着かずて                    
                     まことありえめや 恋しきものを"

(万葉集巻 7)

と詠われているように古くより開けており、東海北陸方面より京洛に至る交通の要衝であるため、人馬の往来が激しく、歴史上 の多くの人物がこの地を通過の際、矢橋八幡宮を参拝した。

菅原道真公との出会い

菅原道真公が金勝山に勅使として立ち寄られた帰途、当矢橋八幡宮を参拝し、大神宮司宅の庭先に咲く梅の木を愛でて読んだといわれる歌;

" 降雪に いろまどわせる梅のはな                  
                     うぐいすの宮 わきて歌はん"

が残されています。
【この歌が大神家に残され伝わっている証拠は、大正年間に栗太郡誌に由緒を記載する手書き原稿が残されている事より明白である】
道真公は、後に謀反を計画したとして九州大宰府へ左遷され現地で没した。死去と同時にこの梅の木が枯れたとの故事にちなみ、境内に天満神社として鎮座されていたが、大正元年十月二十八日に本殿に合祀された。

源頼朝公との出会い

檀の浦で平氏を滅ぼした源頼朝は建久元年(西暦1190年)に初めて上洛し、後鳥羽天皇に謁見、権大納言、右近衛大将に任命されたが、その上洛時に通過したのが当地矢橋であった。社伝によると、
「矢橋浦に神社の森があったので、頼朝は村人を召し、馬上より鞭の嵜(さき)を以って指し尋ねたところ、八幡宮であると応答したので下馬し参拝した。以来、鞭嵜八幡宮と云うようになった。」
そして、頼朝は征夷大将軍となった建久三 年(西暦 1192年)、いわゆる鎌倉幕府成立とされている年、卜部兼藤(うらべかねふじ)に当社の社殿を再興させている。

鞭嵜八幡宮と京都御所

鞭嵜八幡宮は歴代皇室の尊崇厚く、上御所、大宮御所、 春宮御所、仙洞御所等より御なず物、御初穂、銀、下附等度々あった。天保八年神殿改造(前項の略譜参照)の節は、仙洞御所より御寄附があった。

徳川家康公との出会い

慶長五年(西暦1600年)九月十五日、関ヶ原の合戦で勝利をおさめた徳川家康は、敗走する西軍を追うようにして下海道(後の朝鮮人海道)を南下して矢橋街道を通り、矢橋港に出て大津へ舟で 渡った。以来家康は矢橋街道を、天下支配の吉例の道とし、功臣戸田左門を膳所城に封じ、家康・秀忠・家光が矢橋から舟を利用したときは、膳所城に泊まるのを例とした。
慶長八年、戸田左門は社領十石を当社に寄進。以後膳所城主は代々社領を寄進し、また社殿の再興等に尽力された。

神仏分離令と表門(高麗門)の移設

明治に入って新政府が神仏分離令を発し、この時から鞭嵜八幡宮は「鞭崎神社」に改名した。二度目の改名である。明治四年(西暦1871 年)、廃藩置県の際、当時の膳所藩主である本多康穰(やすしげ)主膳正は、膳所城の南大手門を寄進し、今日鞭崎神社表門として重要文化財に指定されている。
瓦には本多家の「立ち葵」が焼き付けされています。

祭礼日

祭礼日は古来より毎年五月初午の日であったが、明治四十三年より太陽暦に旧暦を併記することができなくなり、この年の五月五日は丁度初午に該当したので、以後五月五日を例祭日とすることになった。

歴代の神職

当初の神職は紀氏で、その後、大神(おおが)家で四十二代・大神正壽宮司まで守り続けられてきた。
現在は、大宮力(おおみやちから)宮司が奉仕している。
所在地:滋賀県草津市矢橋町1463
                                                電話/FAX番号:077-575-2509


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